世界のトレンド、発酵食
旅先でどんな経験をできるのか、いつもわくわくする。なかでも、美味しいものとの出会いは、誰にとっても旅での重要な位置を占めているのではないだろうか。
華やかな料理も良いけれど、どうしても忘れられない味、また食べたい味というのは、意外とその地域に根付く歴史や文化を吸い込んだ、シンプルで純朴な料理だったりする。近年、世界からも注目されている「発酵食」もその代表的なものの一つだろう。
発酵とは、簡単にいうと、細菌類、酵母類、カビ類などの微生物自身もしくは、微生物がもつ酵素類が糖のような有機物や無機物に作用して、アルコール・有機酸・炭酸ガスなどを生ずることを指す。地球上には、微生物によるさまざまな還元作用が行われてるのだけれど、その中でも特に人間にとって有益な作用のことを、人は、発酵と呼んでいる(不利益なものには、腐敗などがある)。そのため本来は、発酵というと、酒やアルコールの醸造、発酵食品の生産だけではなく、有機酸やアミノ酸、抗生物質などの発酵工業から、自然界において微生物が行うような環境浄化も含まれる。
とはいえ、私たちにとって一番身近な発酵は、やっぱり食に関する発酵。発酵食は、今、世界中の料理家の中でトレンドにもなっている重要なキーワードである。
世界における代表的な発酵食といえば、パンやワイン、チーズなど、酵母菌での発酵がほとんどだが、日本では、日本独自のカビ菌である「麹(糀・こうじ)菌」、乳酸菌などの細菌、酵母など微生物が複雑に融合した、独自の発酵が行われてきた。
日本で最初に生まれた発酵食品は酒とされており、その歴史はさかのぼること、弥生時代とも縄文時代ともいわれている。四方を海に囲まれた高温多湿の土壌ゆえにさまざまな菌が発達したこと、さらに四季があることにより長い冬を超えるための保存食が必要だった、などの理由から、日本の発酵技術は独自に進化を遂げている。かつては「八百万の神のしわざ」とも考えられていたものの、 近年ではそのメカニズムが徐々に明らかにされてきており、世界的な和食ブーム、美食ブームもあいまって、世界中から、日本の発酵食に熱い視線が注がれているのである。
発酵王国、能登
そんな発酵国である日本のなかでも、能登半島は、国内でも類を見ないユニークな発酵食が生まれてきた場所で、一体どうしてなのだろう。そのわけを探るには、まず、気候・地理・歴史的な視点から、能登という地を紐解く必要がある。
海沿いをドライブするとよくわかるのだけれど、能登半島は実に多様な海岸線を持っている。外浦と呼ばれる岩礁海岸、内浦と呼ばれるリアス式海岸、さらに遠浅の砂浜海岸と、異なる地形が海沿いの三方をなしている。季節風吹きすさぶ外浦と、穏やかな湾をのぞむ内浦では気候も異なるし、もちろん恵まれる海産物の種類も違う。
さらに、低山と丘が多く平らな地面が少ないため、海と山、そして人々の暮らす里の距離が近い。能登の人々は海と山の双方と密接にかかわりを持ちながら暮らしを育んできた。海になだれ込むように棚田が作られ、そのすぐそばに家々が並び、さらに集落を抱くように里山が茂っているという風景は、能登の代表的な景観ともいえる。
そんな複雑な地形ゆえに、採れる食材も地域ごとにバリエーションが豊富、いわゆる多品種小ロット。魚介類の種類は地域や四季で異なるが、常に数種類が水揚げされているし、複雑な海岸線が育む海藻類は、30種類以上。農産物に関しても、米はもちろん、能登野菜と呼ばれる17品目の伝統的な野菜山菜、きのこ(能登でしか生息しないきのこもあるらしい)など、ともかく種類が多い。
加えて、北陸特有の長い冬を超えるための保存、加工の技術が磨かれた。能登の夏は高温多湿で、食品を加工しようとしても水分を飛ばす前に食品が腐ってしまう。そこで、微生物の力で食品を発酵させる技術が発達したといわれている。発酵の基本材料となる豊富な米と塩が採れたことも関係しているのだろう。
さらに歴史的に遡ってみると、能登半島には縄文時代の遺跡が数多く発掘されており、当時から人々が暮らしを営んでいたことがわかる。酒の発酵は縄文時代から行われていたのではないかと言われているのだから、能登半島の発酵技術は深い歴史をもつと想像できる。
海路が中心だった時代には、朝鮮半島との交易の入り口となり、江戸時代には北前船で繁栄。移動の中心が陸路に変わった後は、いわゆる「僻地(へきち)」となったのだが、現代のグローバリズムの波にのまれることなく(良い意味で)取り残された結果、伝統的な技術や文化が色濃く残ったのである。
シンプルで粗野、漆黒のエッセンスいしり
そんな能登の発酵食のなかでも群を抜いて特徴的なのが、能登町で作られる「いしり」である。いしりとは、タイのナンプラーやベトナムのニョクマムに近い、いわゆる「魚醤」。日本国内でも秋田県の「しょっつる」が有名だが、なかでもいしりは日本一の生産量を誇る魚醤だそう。
どこの魚醤も、その地域でよく獲れる魚介が原材料となっていることが多く、ここ能登では、イカで作られるものを「いしり」、いわしやサバで作られるものを「いしる」と呼び分けている。
いしりの名産地、能登町にある小木(おぎ)港は、北海道や青森と並ぶイカの漁獲高を誇る日本屈指の漁港で、毎年5月には「イカす会」という、イカをとことん食べ尽くすお祭りが行われており、2020年4月22日には「イカの駅つくモール」という観光交流施設もオープン予定と、町をあげてイカと密接な関係を築いてきた地域だ。
冷蔵庫もない時代、ふんだんに水揚げされる新鮮なイカをどうにかして保存したいという思いが、地域の人の加工技術を発達させた。シーズンにはイカ釣り漁船がずらりと並ぶという小木港周辺には、いしりをはじめ、もみイカ、イカの塩辛、黒作りなど、イカの加工を行う生産者が今も残っている。カネイシさんも、そのうちの1社だ。
「いしりの起源ははっきりとはわからないんですが、江戸中期頃には製造がはじまっていたとされています。イカの内臓も余すことなく使いたいという知恵から生まれた保存食だと思います。私が知る限り、うちでは、先々代の頃にはいしりを作っていました。昔は船小屋のような店で、目の前であがったイカを、店の隣で加工していました。」
いしりの原材料は、イカの内臓と塩のみ。その作り方も、いたってシンプルだという。
「いしりの仕込みは、冬の終わりくらいにはじまります。イカの内臓と塩を、タンクに投入して攪拌し、その後、気温と湿度があがるゴールデンウィーク明けまでに、タンクの中の塩分が均等にまわるようコンディションを整えます。そこからは自然の気候に任せて発酵させます。1年目の彼岸の入り(春)から彼岸の明け(秋)くらいまでの間に活発に発酵し、その後、気温の低下とともに熟成期間に入ります。熟成の期間が長いほうが味がまろやかになります。できあがりまでは、おおよそ1年半ほどです。」
まるで濃厚な醤油のように深い漆黒をたたえたその液体は、イカをまるごと閉じ込めたような濃厚な味と独特の発酵臭が特徴。そのワイルドともいえる強い香りから、地元でも「いしりは苦手」という人が少なくなかったようである。
「私自身も、いしりの味が『えぐい』と思うこともありました。昔はいしりをそのまま使うことが多くて、上手な使い方がこの地域でも、わかっていなかったんだと思います。うちではいしりの販売をしながら、いしりを美味しく食べるレシピを発信しています。」
こちら→https://kaneishi.com/ishiri-resipe/
いしりを使ったさまざまなレシピを探求するのは、帰ってから楽しみとして、その時その場でしか食べられない味を求めるのが、旅先の常。「刺身につけることも多いです。醤油で少し割って食べるほうが相乗効果があっておいしい」というカネイシさんの言葉を頼りに、能登町の宇出津にある「いしりの漬け丼」をいただきけるお店を訪れた。
正直もっとパンチの効いた丼物を想像していたので、数種類の刺身が艶やかに並ぶその繊細な仕事にまず感服してしまった。さらに口に運んだ途端、二度目の驚きが。いしりの発酵臭は上品な芳香へと昇華し、鮮度の高い弾力ある刺身に優雅な風味を与えている。単なる醤油の漬けではこの味の奥行きは生まれないだろうし、少しでも新鮮さを失った刺身では、いしりとの相乗効果は期待できない。「イカを由来としている食品なので、魚介にぴったりと合うんです」というカネイシさんの声を耳にこだまさせながら、その味をかみしめた。
能登町には和食以外にも、さまざまないしり料理を楽しめる店がある。特に能登半島はイタリアに地形が似ているとも言われ、その地の食材の魅力を存分に活かしたイタリアンの名店が多い。いしりの独特な臭みも、ソースに使うと料理の風味を数層に広げる隠し味になる。トマトソースに加えたり、漬けをアレンジしてカルパッチョにしたり、魚介の内臓を漬け込んだり。ともかくいしりは自由に存在を変化する調味料なのだと、一皿一皿を通して感じさせてもらうことができる。
日本の発酵食界の権威、小泉武夫先生は、著書「小泉教授が選ぶ 食の世界遺産」の中でいしりについて、こう記している。
-これを隠し味にした料理の真髄を知ってしまうと、すっかりはまり込んでしまうほどの神秘的な魚醤である-
いしりは、素材も製造方法もシンプル。だからこそ作り手によって、微妙に味の違いが生まれるという。旅のお土産に数種類のいしりを買って、食べ比べるのも楽しい。自分にあったいしりやいしり料理を探す旅が、ここ能登町での新たな楽しみ方としてカウントされそうだ。
米飴が描く、里の風景
昨今でこそ注目が集まり、そのメカニズムが科学的に解明されている発酵。けれども、昔の人たちにとっては、「なんだかよくわからないけど、おいしくなった」という偶然にも近い発見からはじまり、「この工程をすれば、同じようになる」という経験を積み重ねて確立された技術でもあった。
松波にある横井商店さんが作りつづける「米飴」は、500年以上の伝統をもつ。かつては各家でも製造されていたが、戦争や米不足などで技術が途絶え、今、能登町に残るのは横井商店のみ。長い歴史の中で、貴重な甘味として地域の人に求められてきた。横井商店を継ぐ横井 千四吉は、数十年の腕前をほこる。
「米飴の原料は米、大麦。米を蒸しておいて、大麦は発芽させて粉状にした「おやし」にします。これとお湯を混ぜあわせて一晩発酵させると、米のでんぷん質が糖化して甘味のもとができあがるんです。それを漉したものを約5時間、琥珀色になるまで煮詰めたものが、米飴です。米飴づくりには温度管理が一番大事なんですが、うちは経験と勘で作っているので見極めるのがいつも大変です。気候が違うと、お湯の量や煮詰める時間も変わってきます。お米のできによっても、水温によっても違う。釜の周りの石の温度も毎日違うので大変です。一つの大釜で炊いているので、失敗したときは全て捨てます。甘くならないで酸っぱくなったり苦くなったりすることもあります。」
独特のコクがあり、砂糖代わりに料理やお菓子づくりに使えば、優しいコクと甘さをもたらしてくれる米飴。そもそもの栄養価が高いので、病中後の養生食としても重宝する。風邪のときは、生姜湯に加えて、生姜飴湯にしてもおいしい。マクロビオティックの身土不二の視点に立てば、より自分に身近な米で甘味を得られるのは魅力的だ。
かつて、お祭りになると店の前の商店街に縁日が並んだ松波の地域で、ポン菓子や起こし飴を提供していた横井さん。今では町中のスーパーに買い物の主軸がうつり、地域の商店は減り、縁日もなくなった。それでも、今も地域の人から「米飴を作ってほしい」と求められる。
「自分のところの食べきれない米やくず米を持ち込んで、飴にしてほしいと言ってくれる方もいます。喜んで作っていますよ。」
最後に、夜分になったことを詫びると、千代吉さんは明るくこう付け足してくれた。
「うちは起きてる間は店の電気をつけておくんです。学生さんや、誰かが通った時、街が明るいほうがいいでしょう。商店として心がけです。」
サブにしてサブならず、漬物の極意
華やかとは程遠い存在でありながら、その一品があることで食事の微妙なバランスを保っていたり、予想外の風味に味に舌をまく、そんな奥深い発酵食が能登にはある。漬物だ。
漬物、発酵食品の中でもベーシックな糠(ぬか)漬けは、能登の多くの家庭で作られている、いわばおふくろの味。家々に伝わる糠床に、自分たちの畑で採れた野菜を漬けておく。能登町内の飲食店で何度も食す機会があったのだけれど、いつも、鼻をすっと抜ける爽やかな芳香に衝撃を受けた。市販のものとは全く別物。それもそのはず、野菜はもちろん、きっと糠のもとになる米がそもそもとんでもなく美味しいのだから仕方ない。
能登では野菜を漬ける以外にも、糠(ぬか)にイワシやサバを丸ごと漬けたものがあり、「こんか漬け」とよばれている。天保の飢饉の際の非常食としてあみだされ、加賀藩の保護のもと、現在まで伝承されている一品だ。魚の頭、鱗、内臓を取り除いて塩に粗漬けした後、味付けした糠床に丸ごと漬け込んで発酵する。今は、能登のスーパーでも購入することができるので嬉しい。糠を落としてスライスしたあと、軽く炙ると、あたりにたまらない良い香りが立ち込め、白いご飯とも酒とも相性抜群の一品になる。パスタに混ぜるのもおいしい。
そのほか、神秘的な黒いエキス、イカのいしりに、大根やナス、キュウリなどを漬け込んだ「ベン漬け」も能登町の特徴的な発酵食の一つ。このベン漬け、なんと、七輪に炭をおこし、その上でこんがり焼いて食べる。理由はわからないけれど、焼くことでいしりの香ばしさが増し、生で食べるよりずっと、良さそうである。
能登の暦と、文化としての発酵食
日本は発酵の国である。守ろうという意思があったのか、あるいは、時間の間をすり抜けて残ったのかはともかく、「昔と変わらない」「懐かしい」「古くから伝わる」といった発酵食は多くある。
けれども、能登の発酵食に触れれば触れるほど、どこかそういった懐古的な印象とは異なるものを感じざるを得ない。発酵食はそもそも古の人たちが知恵をしぼり、「生き抜くために」にうまれてきたものだ。けれども、切迫感みたいなものとは異なる要素が、能登の発酵食にあるように思えてならなかった。一方で、昨今の美食ブーム、和食ブームのなかで語られる、ヘルシーでファッショナブルな発酵食、美食学的な発酵食とも全く異なる水脈が流れている。どうしてなのだろうか。
その緒は、静かなさざなみの内海を見下ろす能登町矢波地区で、オーストラリア人シェフであるベンさんとともに民宿「ふらっと」を営む女将、船下千香子さんの言葉にあった。
「能登では、ずっと昔から、祭りが暦の中心にあったんです。」
能登では、集落の数だけ祭りがある。能登の人の生活は年に一度行われる祭りを中心にまわっていると聞いたことがあるけれど。祭りと食とが結びつかずにいると、千香子さんはこう続けてくれた。
「能登には、四季折々、この時にはこれを漬けて、この時期にはこれを仕込んで、というサイクルがあるんですが、ぜんぶ『祭りの時に美味しいものを食べてもらうため』という視点なんです。祭りのご馳走のために、発酵、保存食をつくるサイクルがまわってる。だからお祭りのときには、各家で伝わるひねずしや、豆や山菜など、一年の美味しいものでつくった、みんなの自慢の料理が並びます。」
そうか。能登において発酵食は、祭りを舞台に洗練されてきたれっきとした「文化」だったのだ。
単純に食べて生き抜くため、あるいは食材を余すことなく使うために生まれた加工技術を根底に、ハレの場である祭りをより潤わすため、もっとこの酒に合うようにとか、より見た目をたのしくとか、さまざまな工夫がなされた。その結果、能登の発酵食は単なる食の範囲を超えて、より多層的に変化した。機能性と美術的な美しさを融合させた歩みは、工芸にもようにも思えた。
ふらっとさんは、四季折々、能登に伝わる伝統的な発酵食品を今も伝統的な方法で仕込みつづけている。女将さんが仕込むその発酵食品を、ベンさんの発案する新しいレシピにかけあわせた料理を提供している。ふらっとさんという存在が、能登の発酵文化のハイライトにも感じられた。
能登町を離れる夜、縁があって地元の方のお宅で食事をご馳走になった。
そこには、刺身、春菊の胡麻和え、漬物、きのこのお吸い物、白いご飯が並んでいた。その献立はとても美しいものだった。すべての味付けはとても上品でシンプル。一皿にならぶ魚の種類は多く、それぞれのバランスがとてもよい。脂の乗ったもの、濃厚な甘みがあるもの、コリコリと歯ごたえがたのしいもの。ともかく、生の魚の身にこれほど豊富な「味」があるのかと驚いてしまう。春菊は若く尊い香がしたし、白いご飯は小粒な中に濃厚な甘みがつまっていて、自家製のお漬物はお代わりをした。
料理を作ってくださった方は、もてなしてくださりながら「本当に何もないんですけど」とおっしゃっていたのだけれど、それは謙遜ではなく本心なのかもしれないと思った。彼らはきっと、いつもここで、この美しい食事を食べている。そういう気がした。
記:鶴沢 木綿子